スマホは瑛介に奪われ、弥生はどうしても取り返すことができなかった。無理に取り返そうとすれば、彼の傷を悪化させてしまうかもしれないと思うと、強く出ることもできなかった。「罰って何よ。言葉で傷つけたとしても、それと身体の傷とは関係ないでしょ」でも、どんなに言葉を尽くしても、瑛介はまるで聞こえていないかのように無反応だった。まるで、自分を罰することをすでに決めているかのように......その様子に、弥生は観念したように言った。「......じゃあ、罰が必要っていうなら、他の方法もあるよ」「他の方法?」ようやく瑛介が顔を上げ、彼女を見つめた。「じゃあ、どんな罰ならいい?」弥生は真剣に考えてから、口を開いた。「今じゃなくて、あなたの傷が治ってからにして」「その罰が終わったら、君は僕を許してくれる?」「......それはそのときに考える」彼が今日口にした数々の言葉は弥生の心を確かに傷つけていた。瑛介はその答えに少し目を伏せたが、それ以上は何も言わなかった。「じゃあ、スマホ返して。医者に電話して、傷をちゃんと処置してもらわないと」しばらくの沈黙の後、ようやく瑛介はスマホを彼女に渡した。弥生はスマホを受け取りながら、心の中でそっとため息をついた。彼の急な登場と小さな騒動のせいで、由奈を見送りに行くことさえできなかった。でも、浩史が一緒にいてくれるから、きっと大丈夫。電話をかけると、医師はすぐにやって来て、瑛介の傷の処置し直した。傷口を見た医師は、思わず眉をひそめて言った。「この傷、昨日ちゃんと処置したはずですが......どうして悪化してるんですか?いったい何をされたんですか?」だが、当の本人である瑛介は、何食わぬ顔で答えた。「ちょっと、ぶつけただけです」その言葉に、医師は無言になった。「宮崎さん、これは命にかかわるものではありませんが、冗談で済むような傷でもないんですよ。ちゃんと治療しないと後で後悔しますよ」医師の真剣な言葉に、瑛介はさすがに反論できず、最後は静かに「気をつけます」とだけ答えた。医師としては、患者がちゃんと指示に従ってくれるのが一番。そうすれば回復も早いからだ。彼の素直な返答に医師も満足し、そのまま部屋を出ていった。医師が去った後、弥生は瑛介に向かっ
弘次が自分を誘拐したことも、まさかの出来事だった。でも、今の瑛介の問いかけは、弥生の心に予期せぬ衝撃をもたらした。そして一瞬たじろいだが、すぐに冷静さを取り戻した。違う、瑛介の問いに巻き込まれちゃダメ。「そもそも、そんな話は現実に起きてない。そんな例え話、意味がないよ」その答えに、瑛介の目がわずかに暗くなった。「例え話が間違ってるのか?それとも、君が僕の質問に答えられないだけか?もしくは......君の答えが、僕の想像通りってこと?」その言葉に、弥生は唇を結び、しばらく黙った。彼の言うような状況を頭の中で思い浮かべてみた。もし、瑛介が自分を誘拐して、子どもと一緒に無理やり暮らそうとしたら?どんなに親しい相手でも、法を犯してまで一緒にいようとする人は、受け入れられない。その思いを込めて、弥生は瑛介の心を傷つけるかもしれない言葉を、あえて口にした。「そう。君の想像通りだよ。もし君が私を誘拐したら、私は君のそばにもいない」瑛介の目がさらに暗くなった。「でも同時に言っておくけど、私が君のそばにいないからといって、弘次のそばに行くとは限らない。私がそばにいるかどうかは、私自身の意志で決めること。誰かに強制されて選ぶことじゃない」それは、彼女なりの誠実な答えだった。あとは、瑛介がどう受け取るか——彼女にはもう関係がない。弥生は彼の返事を待たず、その場を離れた。しばらくして、瑛介はようやく我に返った。さっき自分が口走ったことを思い出し、眉をひそめて後悔の念に駆られた。彼女の言うとおりだった。誰のそばにいるかは彼女の自由であって、他人が強制するものじゃない。そう思い直し、瑛介は足早に彼女のあとを追った。幸い、弥生はまだ遠くには行っておらず、瑛介はすぐに追いつくと、彼女の手首を掴み、そのまま自分の胸元に引き寄せた。「ごめん。さっきは僕が悪かった。怒らないでくれないか」弥生は彼を軽く押しのけようとしたが、うっかり彼の傷口に触れてしまい、瑛介が低くうめき声を上げた。その音に、弥生は我に返った。彼がまだ負傷中であることをすっかり忘れていたのだ。慌てて手を引っ込め、彼を見上げて問いかけた。「大丈夫?」瑛介は彼女を見つめながら、低い声で答えた。「大丈夫だよ。いや、大丈夫じゃないけど、これは自業自
瑛介は唇を引き結び、不機嫌さの滲む表情を浮かべていた。明らかに、彼女の言葉が気に入らないようだった。弥生はぐっと力を込めて自分の手を引き抜こうとした。その瞬間、瑛介の目にわずかに傷ついたような色が浮かんだ。彼女が手を引こうと悪戦苦闘しているなか、浩史が口を開いた。「それでは。僕たち、そろそろ空港に向かわなければならないので、これで失礼します」そう言うと、浩史は自然な動作で由奈の手を握り、そのまま引き寄せて連れて行った。「え、えぇ?」由奈は突然手を引かれたことに驚きつつも、すぐに弥生へと振り返りながら叫んだ。「弥生、また会おうね!向こうで落ち着いたらすぐ会いに行くから!」弥生は手を振りながら応えた。「うん、絶対にあう!またね」由奈は浩史に連れられて去っていった。その場には、瑛介と弥生だけが残された。数秒間の沈黙の後、弥生はついに口を開いた。「......もう行っちゃったのに、まだ手を離さないつもり?」その言葉に、瑛介は手元の二人の手を見下ろし、唇にわずかな笑みを浮かべた。「なんで離す?」弥生は自分たちの手を見つめながら、ため息交じりに答えた。「ただの礼儀で握手しただけでしょ。そんなに気にすること?」「気にするよ」瑛介はまっすぐに彼女を見つめた。「他の男に君が触れられるのが、嫌なんだ」「触れたって言わないよ。ただの握手だよ」そう主張する弥生に、瑛介はさらにきっぱりと言った。「それでもダメだ。握手でも触れてるのは事実だろ」諦めたように沈黙したそのとき、瑛介はじっと彼女を見つめながら尋ねた。「健司から聞いたよ。君、弘次のことをいろいろ訊ねてたんだって」その言葉に、弥生の動きが止まった。瑛介に直接訊けないから健司を通じて訊いたのに——それがもう伝わっているとは思っていなかった。そして、あっという間に本人が問い詰めに来た。「......うん。訊いたよ。だから何?」弥生の目にはわずかな反発の色が浮かんでいた。まさか、このことで責められるとは思っていなかったのだ。瑛介はしばらく黙り込んだあと、低い声で問いかけた。「僕は、君にとってそんなに信用ないのか?」「え?」弥生はその質問の意図がわからず、戸惑った。「僕は君の信頼に足る男じゃない?だから
だが、抱き合っている二人の様子はどこか切なげで、瑛介はその場に足を踏み入れることなく、玄関口で静かに立ち尽くしていた。五分が経過した頃には、さすがの瑛介も眉をひそめ、不満げな表情になっていた。唐突に響いた咳払いが、二人を現実に引き戻した。聞き覚えのある声に、弥生はそっと顔を上げ、咳の主が誰かを確認した。彼はずっとそこにいたようで、じっとこちらを見つめていた。由奈もすぐに弥生から離れ、姿勢を正した。「瑛介」「......ああ」瑛介は歩を進めて部屋の中に入ってきた。「何を話してたんだ?」女同士の会話だったはずなのに、瑛介の声にはどこか嫉妬めいた響きがあった。その雰囲気に、由奈は驚きを隠しきれず、内心では「えっ、この人、もしかして嫉妬してる?」と戸惑っていた。「特に何も。ただ私、もうすぐ帰るから、挨拶に来ただけ」それを聞いた瑛介は少し驚いた表情を浮かべた。「......もう行くのか?」昨日やっと弥生を見つけたばかりだというのに、今日もう帰ってしまうというのか。由奈は頷いた。「うん。社長も忙しいから、どうしても戻らなきゃならなくて。それに、弥生が無事だってわかったから、もう心配ないし」その説明に、瑛介は深く追及することなく、頷いてみせた。「いつ帰る?」「ちょうど彼女と別れたら空港に向かうところなの」その言葉を受けて、もう一つの人が玄関先に現れた。浩史だった。二人の男が目を合わせ、先に浩史が口を開いた。「宮崎さん、この数日、本当にお世話になりました。でも会社のこともあって、そろそろ失礼致します」「いえ、こちらこそ」ふたりは握手を交わし、その後、浩史は弥生に向き直って手を差し出した。「ご無沙汰していますね、霧島さん」彼は相変わらず誠実そうで、容姿も整っていた。弥生は微笑みながら返した。「お久しぶりです。由奈と一緒に私を助けてくださって、ありがとうございました」そう言って、彼女も手を差し出した。が、その手が浩史に届く前に、瑛介の手がスッと割って入った。瑛介は彼女の手を包み込みながら、落ち着いた声で言った。「こんなに手が冷たいなんて......もっと暖かくしないとダメだろ」由奈は瑛介の掌に包まれた弥生の手を見て、そして空中で宙ぶらりんになってしまった浩史の手を
弥生は思わず目を見開いた。「辞めるって......どうして?まさか、私のことで?」「違うよ」由奈は首を振り、目元の涙を手で拭いながら、伏し目がちに答えた。「きっかけは確かにあなたの件だったけど......一番の理由は、私自身がもう働きたくないって思ったから」来る前にはそんな話、一言も聞いていなかった。だからこそ、弥生の胸にはうっすらと罪悪感が生まれた。もしかして、やっぱり自分のせいで。「私は本気で言ってるの。私たち、何年も親友でしょ?それなのに私の言葉、信じられない?」由奈は少しムッとしながら、続けた。「ずっと言ってたじゃん、社長は時間を吸い取られて、婚活のチャンスもないし、このままじゃ一生結婚もできない。しかも最近ほんとに疲れちゃって......ちょうどいい機会だったし、もう帰ったら潔く辞めようかなって」彼女が長々と話したのは、弥生に余計な罪悪感を抱かせたくなかったからだった。もし今ここで、弥生が「私のせいで......」なんて言い出したら、由奈はまた一から説明しなきゃいけなくなった。だから弥生は静かに頷いた。「うん、自分で決めたことなら、私は何も言わない」大人なんだから、何を選んでもその結果を自分で引き受ける覚悟があるなら、それでいい。「ありがとう」由奈はもう一度、弥生をぎゅっと抱きしめた。「分かってるよ。弥生は、私が何をしても、ちゃんと味方でいてくれるって。見てて、私、辞めたら自分で何か始めるつもりなんだ。屋台でもなんでもいい、ボスになるの!だって、私がルールなんだもん!」「うん、やりたいこと、やればいいよ」ふたりはそのあとも、しばらく他愛ない話を交わした。そして由奈はようやく名残惜しそうに弥生から身体を離した。「じゃあ、そろそろ行くね......また会おうね」「うん」弥生は少し考えたあと、数歩前に出て声をかけた。「送っていこうか?」由奈としては、正直一緒に来てもらえるのは嬉しい。でも弥生がこの場所を離れることで危険にさらされる可能性を考えると、即座にその考えを打ち消した。「やめとこう。今のあなたはここを出ちゃダメ。瑛介さんの保護下にいたほうがいい。もし、外まで送ってくれて、また弘次の手下に捕まったらどうするの?やっとあなたを救い出せたのに」その言葉に、弥生は思わず目を伏せた。
たとえ彼が若い頃に傷ついた経験を抱えていたとしても、それが今の行動を正当化することになるのか?何を意味するというのだろうか。また、それが彼に何の関係があるというのか?誰だって若い頃に一度は傷ついたことがあるだろう。......だが、瑛介の命令である以上、健司もこれ以上は何も言えなかった。「分かりました。ご安心ください。徹底的に調べてみせます」そう言って、健司はその場を離れた。そこには瑛介ひとりが残された。彼は唇を真一文字に結び、じっとその場に立ち尽くしていた。脳裏をよぎるのは、健司が語った言葉ばかりだった。弥生が、まるで心の底から弘次を案じているかのように話していた、あの時の様子が、どうしても頭から離れなかった。胸の奥が、じくじくと痛んできた。酸っぱく、苦い感情が同時に広がった。いてもたってもいられなくなった瑛介は、彼女を探しに立ち上がった。弥生は健司と話したあとも、しばらく弘次のことが頭から離れなかった。ふたりの子供は部屋でアニメを見ていて、それぞれスマホを手にしていた。弥生にも一台スマホがあった。それは瑛介が用意させたものだった。以前使っていたスマホは、あの日の夜に逃げ出す際、慌ただしさのあまり持ち出すのを忘れてしまった。だから今は、瑛介が用意した端末に、新しいSIMカードを入れて使っている。もとの番号は、日本に戻ったあとで再発行するしかない。ひとりでそんなふうに考え込んでいたとき、由奈が部屋に入ってきた。「弥生、こっちの問題もだいたい片付いたし、私と......えっと、あのクソじゃなくて......社長のほうも、そろそろ帰る準備しなきゃって思ってるの」つい昨日の夜に会ったばかりなのに、もう帰ってしまうの?そう思うと、弥生は名残惜しげに彼女を見つめた。「もう少し、こっちにいてくれないの?」由奈は舌を出しながら、申し訳なさそうに言った。「ごめんね、本当はもっと一緒にいたいんだけど......でもね、社長はもう結構長く付き合ってくれたし、これ以上会社を空けたらさすがにまずいでしょ?最初はね、彼だけ先に帰らせて、私が残ろうと思ったんだけど......彼が許してくれないの。絶対一緒に帰るって」その言葉に、弥生はなんとなく察したような気がして、ふっと笑った。「許してくれないっていうより